3歩歩けば人は変わる

子どもの頃から親に叩き込まれた教えがブログのタイトルです。基本思いついたときしか書きません。

仮面を被るのでない、人の数だけ顔がある

nandenandechan.hatenablog.com
これに対する以下は僕のコメント。



以上、要約。

仮面を被る、という表現には、自分の持っている顔が、自分ではなく仮面という外から着けたものである、という願望が強く出ている。
つまりは自分自身の一部として認めたくない。
これは、自分の認めたくない部分を外部におくことで、人が自分自身を守るため、精神を安定させる方法なんだと思う。
これ自体は悪いものじゃない。

一方で、個人的な経験からすると、自分に自信がない、自己肯定感が弱い人ほど、「仮面を被る」という表現を使いがち、な気がする。
自分は仮面によって隠されている、そんな認識が過剰に強くなりすぎると、外の仮面と本当の自分との解離、二面性に悩み、自分探しの旅をしちゃうような精神状態になってしまう。
それを打破しよう、本当の自分を出そうと、外の仮面とは真逆な人間像を演じ、無理をして失敗し、また悩む人も複数見てきた。
本当の自分を演じる、というジレンマは辛い。

だから、僕は今の自分を変えたいと思っている人には、自分の全てが自分である、と認識することから始めることを薦めたい。
それは、「仮面」ではなく、「顔」なのだ。

話を少し変える。
0歳の我が息子を見ていて、生後4ヶ月ぐらいから、父親である僕と、母親であるワイフを見ると、態度が違うことに気付いた。
巨大なおもちゃとおっぱい製造マシーン。
それが、月齢が進むにつれ、僕らを「人」と認識し、甘えたりコミュニケーションを取るようになってきた。
だが、我が息子の態度はまだ父親と母親で違う。
おっぱいのない父親の前では、悪ガキと化し、極限まで遊び尽くし、疲れて電池が切れたように寝てしまう。
おっぱいいっぱいの母親の前では、赤ん坊に戻り、できるだけくっつき、おっぱいをせがんでとことん甘える。ワイフがそっぽ向けば、我が息子はワガママ坊やとなり、おっぱいはセルフサービスと化す。
子どもは、とことん欲望に素直だ。
その子どもがすぐに父親と母親に向けての「顔」を作り出した。
NHK「すくすく子育て」でやっていたのだが、子どもは成長とともに社会性が広がり、「好きなのは誰?」と聞くと、親→先生→友人と、どんどん変わっていくそうな。
今後も我が息子の顔は、その社会性の広がりとともに増えていくだろう。
仮面と表現しているものは、その成長の過程で生まれた自分が気に入っていない顔でしかない。

仮面を被っていると捉えるか、顔が複数あると捉えるか、でコミュニケーションは変わる。
仮面を被る、と嫌な自分を外に出すことで楽になれるが、仮面は交換しない限り表情を変えるのは難しい。
顔は自分で変えようがないけど、表現は自由に変えられる。
その変わらない部分と変わる部分の両方を備えていることが大切で、最初硬くても段々柔らかくしていけば良いのだ。

突き詰めてしまえば、人によって違う、捉え方次第の話なんだけど、ちょっとまとめてみました。

以上

(遅筆なのでこの記事を書くのに1時間半程度かかりました。)