3歩歩けば人は変わる

子どもの頃から親に叩き込まれた教えがブログのタイトルです。基本思いついたときしか書きません。

目を閉じて生きる 悪の凡庸さ

この話、長いが特にオチはない。

連休のおかげで忙しい日々の中で久しぶりに物思いにふける時間があった。
祖父が亡くなったり、その後十何年ぶりに兄弟喧嘩したり、令和に変わったり、ワイフの腹にいる3人目の子がそろそろ安定期に入りそうだったり、そもそも最近飲み歩きして人と話してアウトプットしてなかったり、と色々センチメンタルな気分にさせる出来事と暇がちょうど重なったからかもしれない。
ふと「人は目を閉じて生きる」という言葉が浮かんだ。
社会人成り立ての頃から今に至る10年近くの間に僕が身に染み付いた教訓。

そういえば昔の歌でそんなのあったような、と思いググってみたところ、上記のビートルズの曲の歌詞が出てきた。
> Living is easy with eyes closed, misunderstanding all you see.
> Strawberry Fields Forever / The Beatles

「人生は目を閉じれば簡単、目に見えるもの全て誤解しながら」
日本語にするとこんな雰囲気だろうか。
僕が得た教訓を異なる視点で捉えた感じがするフレーズだ。

ここ数年を振り返ると、精神的に潰れるメンバーを多く輩出する炎上プロジェクトの支援など、公私ともに高ストレスな環境で精神的に弱っている人と、論理的にものごとを進める機会が多かった気がする。
高ストレス環境では、ひとつの物事が起き複数名が同じ場所にいても、そのひとりひとりに丁寧に話を聞いていくと、毎度毎度新しい情報が出てくる。
利害や権限が異なると差が出やすい。
それは、自分が問い詰められるような情報、負い目に感じる情報がすっぽり抜け落ちるため。
意図的に隠すというよりも、視界から消えるに近い印象。
本人にも自覚がない。
自分にストレスがかかる情報が見えそうになった時、「慣習だから」「ルールだから」「空気で」などのそれらしい理由を探して、無かったことにする。

僕の仕事は、何が見えていないかに着目して、情報を繋ぎ合わせて、見えていなかった答えを明らかにすること。
中学校に習った連立方程式を解いていくような感覚で、複数の数式(人からの情報/認識、客観的な数字や事実)から複数の変数(見えていなかった答え)を導き出していく。
複数名の意見を取りまとめ、解決方法を導いていくプロセスは、探偵ものの推理に近い感覚だった。

高ストレスな環境を複数経験すると、人の弱さも目の当たりにする。
普段時は優しく真面目な人でも、高ストレス環境では簡単に人を陥れたり蔑んだりする。
場の力に抗おうと頭と心を尽くした人でも、心無い裏切りの積み重ねの前では心も身体も折れてしまう。
結局、高ストレスな環境で生き残るには、とにかく何も考えず目をつむって我慢して生きることが良いように感じられてしまう。

そんなことを悶々と感じていた当時、映画「ハンナ・アーレント」を観た。
ナチス・ドイツユダヤ人虐殺の責任者アイヒマンの裁判「アイヒマン裁判」を傍聴したドイツ出身のユダヤ人女性哲学者、思想家のハンナ・アーレントの歴史ドラマ。
この中でハンナ・アーレントが提唱した「悪の凡庸さ」は、僕にとって衝撃ともいえる内容だった。

ハンナ・アーレントの提唱した「悪の凡庸さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変重要なものです。
人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合う怪物が成したのではない、思考停止し己の義務を淡々とこなすだけの小役人的行動の帰結として起こったとするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。
凡庸な人間がそうした悪になり得るということは、人間は誰でも思考を放棄すればアイヒマンのようなことをしでかすかもしれない。
その可能性を考えるのは怖い。
なので人はその可能性に眼をつぶり思考停止してしまいたくなる。
しかし「悪の凡庸さ」が突きつけるのは、人間と非人間と分け隔てるのは思考することであるとします。
映画「ハンナ・アーレント」レビュー、思考し続ける大切さと意志の強さ https://www.huffingtonpost.jp/hotaka-sugimoto/post_6593_b_4543365.html *1

僕が今まで見てきたものそのものを表す概念だった。
それは、社会人になってからの高ストレスな環境だけではない。
振り返ってみると、学生時代にいくつも見てきたイジメの現場もこれだった。
僕はどちらかというといじめられっ子な方だったので、イジメる側は嫌いで関わらないようにしていたのだが、成長するにつれ彼ら/彼女らと交流する機会も次第に増えた。
実際に接すると、彼ら/彼女ら個人個人はとても空気の読めていい人なことに気づいた。
しかし、彼ら/彼女らは集団になると人をイジメることに抵抗がない。
同窓会で子ども、家族、仕事、自分の人情ある一面を語るのと並行して、過去のイジメを良い思い出として語る姿を目撃したときは、反吐が出そうだった。
自身の行為を深く考え、自身が悪であるということを認めることができないのだ。*2
傷つけるのに抵抗がある良い人が潰れ、傷つけるのに無自覚な良い人が生き残る、最悪だ。

僕はこれらの経験と教訓から、気を付けていることがいくつかある。

  • 良い人間関係を保ちたいなら、環境を良くする。

 人は環境、特にストレス要因によって左右する。
 それは、お金だったり、時間だったり、スキル・技術だったり。
 物理的に余裕があれば、精神的な余裕も出る。*3

  • 高ストレス環境では、人の言うことをいちいち気にしない。

 無自覚に何かに言わされていることは多々ある。
 そうは思ってても傷つくことは傷つくので、高ストレス環境では「良い人」だけでは決して信用しない。

  • 高ストレス環境では、自分の言動には気をつける。

 無自覚に何かに言わされていることは多々ある。
 そうは思ってても傷つけてしまうことはあるので、自分の悪には自覚的ではありたい。

ここからさらに先のこと、息子娘らが大人になった先についても思いをはせる。
良い人間関係を保ちたいなら環境を良くすると言ったが、裕福でなくなった日本でこの先良い環境はどんどん少なくなっていくだろう。
自分ひとりで変えることができるのは小さな範囲だけ。
僕が環境を変えて守れる範囲はあまりに小さい。
だから、僕に関わった人には、小さな範囲でも環境を変えて守れる能力が身につくように、と思い接している。
これは息子娘らも同じ。
しかし、具体的にどうすればいいかの答えは出ない。
答えはないのだがせめて、自分の悪に無自覚になってほしくない、とだけ育てている。

*1:ハンナ・アーレントのあらすじなどは以下のサイトが詳しい。 http://rodori.hatenablog.com/entry/2013/11/21/074013 http://www.alter-magazine.jp/index.php?122%E5%8F%B7%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%80%9C%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%87%A1%E5%BA%B8%E3%81%95%E3%80%8D

*2:「漫画ワンピースが好きな人」が苦手、というのはまさにコレだと思っている。

*3:僕がITエンジニアが勉強をした方が良いと思うのはこの点から。