3歩歩けば人は変わる

子どもの頃から親に叩き込まれた教えがブログのタイトルです。基本思いついたときしか書きません。

空気が読めずつらいなら空気を作ってみる

shinoegg.hatenablog.com

以上、要約。

今でこそ「めちゃくちゃ空気の読める男」と呼ばれることが多いw僕だが、学生時代は皆の輪に上手く溶け込めずだいたい「空気の読めない男」と評されていた。
空気の読めない男だったが、人当たりは非常に良い人間だったので、とにかく数をこなすうちにいくつかの気付きがあり、その積み重ねで今のような形となった。

僕は、仕事では揉め事処理班な役割だったり、1人で飲みに行ってその場にいた色んな人と話したりする機会が多い。
その中で揉める/トラブルの原因は、だいたいが前提となる認識のズレから来る。
完全にツーカーの中でもよく起きるので、空気を読んで理解しあっていると思うのは実は錯覚、という意見はごもっとも。
だから、アンジャッシュのコントはコントとして成立する。Google


なので、この対応は非常に正しい。
だが、馬鹿にされるのは癪だ。不快だ。
なぜこちらが分からないことが分からず馬鹿にしてくる馬鹿なお前なんぞに馬鹿にされなければならないのか。

彼らに対する対処方法は簡単。
そもそも彼らは空気に支配されているので、こちらが空気を作ればよい。

日本人が往々として「空気を読む」という言葉に含む意味は「読む→従う」である。
これに気づくまでは、何か違和感があってもどうすれば分からずひたすら空回り、結果空気が読めない、と言われ続けていた。
多少読めたとしても従うものが何かまでは分からないからだ。
でも、これはその場で得られる情報だけでなく、経験から来るものが大きい。
www.asahi.com
同じ経験をしたとしても、個人差(能力や性格、集団での立ち位置など)によって得られる経験値は違う。

ならどうすべきかというと、こちらに都合の良い空気を作ってしまえば、ほとんどの人は「読む→従う」。
こちらが作った空気に合わせた従う行動をすれば、相手をそれほど読まなくても空気を察しているように勘違いするのだ。
これにより空気を読むことが正確に出来なくても、「作る→従う(こちらが狙った同じパターンで)」ができれば、空気を読んだときと同じ結果になる。
今回で言えば、会話を始めたらすぐに先手を打つ。
「僕はよく間違えるから、君も聞いても良いよ。」と宣言したうえで、「えーと、君の名前は太郎だったよね」とわざとらしくこちらからわざと間違える。
「僕は細かいことが気になるから、君も聞いて良いよ。」と宣言したうえで、「僕の身長分かる?」「180cmじゃなくて179.9cmなんだよね」とわざとらしく細かいことを言う。
このテクニックは、本当に名前を忘れたときや初めて会った相手と会話を広げるときにも使えるので、一挙両得だ。
いちいち言葉に出して言うこと自体がコミュニケーションの一部だ、とすり込ませればこっちのもの。
あとは、超細かく聞いてもだいたい大丈夫。
上では軽い感じで書いたが、超揉めてるビジネスの場でも硬い感じで実際に多用しているので、公私ともに使える。

これでどうにかできるとは思わないけど、こういう考え方、アプローチもあるんだよ、という参考として書いてみた。

仕事はできるひとに集まるのでなく、やる人に集まる

仕事はできるひとに集まるのでなく、やる人に集まる。

先日、今やっているプロジェクトリーダーの先輩と話していた時に語っていた言葉。
今の職場を表す良い言葉だと思った。

仕事はできる人に集まる、とよく言うが、実はそうではない。
頑張っても損する機会が多い今の組織では、できる人は美味しい仕事を掴んで「この仕事があるからできない」と宣言することで逃げる。
結果、スキルが足りない人に仕事が来ることになる。
そして、多くの人はスキルが足りないので逃げる。
結果、スキルが無かろうが「やる人」に仕事が集まってくる。

僕は入社以来「炎上プロジェクト」と呼ばれる仕事ばかり従事してきて、行く先々で40,50代のおじさん達が
「仕事初めて一番辛く大変なプロジェクトだ」
と言う。
何回目だよ、それ。
もうどれが辛くてどれが大変か分からなくなってきている。

しかし、年々「やる人」の数が減っている印象がある。
頑張っても報われないからだ。
会社が悪い、組織が悪い、と言ってしまえばそれまでだが、何故それが悪いのか。
大きな組織で「ゆがみ」が存在しないのは事実上難しい。
そもそも過去大丈夫でここ最近辛くなっているかと言えば、現状のビジネスモデル≒SIer が旧来に比べ収益を確保するのが辛くなってきているから。
ゆがみがない組織なんてない。収益はゆがみを見えなくする。

SIerの存在に対するニーズは昔も今も、そしてこの先も十分あると思っているけど、それを支えるビジネスモデルがしんどくなっていると常々感じている次第です。

金が無尽蔵にあったら自由にサラリーマンがやるのが良いな

金が無尽蔵にあったら何をするかを考える - はてな匿名ダイアリー

「金が無尽蔵にあったら」はある種のファンタジーだからこそ盛り上がるネタのひとつ。
しかし、僕にとってはファンタジーではない。

独身の頃、僕より5つ年上で特に仲の良かった飲み友達Aがまさに金が無尽蔵にあったらを現実にしたような人で、彼の周りだけ常にバブル期だった。
彼は某超大手企業の役員のボンボン息子。
某エリート校に進学し高校生の頃、ノリで「ラブホやったら儲かるんじゃね?」と友達とお小遣い出しあってラブホを買い、運営したことが最初のビジネスだと聞いている。
以後も、ビジネスや株、資産運用などによって金が金を呼びどんどん資産が膨らんで、一生遊んで暮らせるほど持っている。
だが、彼の怖い両親の言いつけにより、サラリーマンをやっている。
曰く、規則正しい生活をするためにサラリーマンをやっている、と。

彼について語り始めたらキリがない。
「金が無尽蔵にあったら」という言葉を体現した彼と実際に5年近く毎晩のように一緒に遊んでいた中で感じたことはいくつかある。
ソシャゲの課金なんかは特に分かりやすいけど、リアルでも金はショートカットや手札を増やす(保険)の手段として機能し、少額でも運が良ければ上手くいくし、金額があれば上手くいくまで試すことが出来る。
ただリアルがソシャゲと違うのは、人、場面、時間などによってゲームのルールが曖昧というか目まぐるしく変わる。
その中で、ルールさえ見極めれば「金が無尽蔵にあったら」あらゆることが正攻法でこなすことが出来る。
正攻法だから、だいたい成功する。
この繰り返し。
だから飽きる。

すると、結局「自分はどうあるべきか」「周りをどう捉えるべきか」という自分探しの内面的な視点に目が向くか、リソース≒金が限られている状況でどうすべきかという視点自体が魅力有るものに見えてくる。
セレブがDIYにハマるのはまさにこれ。超セレブな森泉が100均でDIYやるのは当然と言えば当然。
そんな環境/意識のなかでサラリーマンをやると、どうなるか。
しがらみに囚われずあるべき姿のまま仕事が出来る。
サラリーマン金太郎状態である。
金太郎であると同時に、会長状態。
彼にとっては、サラリーマンは趣味なのだ。

さて、そんな彼を近くで見ていた自分。
一緒にセレブな遊びをさせてもらったが、それだけやっていると流石に飽きるだろうな、というのは体感的によく分かった。
社会に関わらないとダメな人間だと思う。
僕も金が無尽蔵にあったら自由にサラリーマンがやるのが良いな、と思う次第である。